巨氷山と無形の価値
お題スロットを回してつい気になってしまった10万円。他のお題は「好きなもの」とか「断捨離」とか「昨日のご飯」とか日常のささやかな幸せに関連するようなそんな雰囲気。そんな中燦然と輝く10万円の文字。
「10万円あったら何がしたい」でも
「10万円手に入れる方法」でも
「10万円の価値」とかでもなく
ただただ「10万円」とだけ書いてあるお題
1000ドルではきっと手を止めなかったのでしょう。
800ポンドとかでもいまいちしっくりこなかったでしょう。
10万円だからこそちょっと気になってしまった。手を止めてしまった。
そこに私はどんな心理があったのでしょう。推察してみましょう
素直に10万円は欲しい。
特に後腐れも後ろめたさもなく10万円もらえるならマイクとポップガード、インターフェイス等「歌ってみた入門セット」的なものが欲しい今日この頃。
ちなみにこれらは10万なくとも購入は可能。3万あればサクッと揃うくらいのもの。
冷静に考えてやりたい気持ちさえあれば今すぐにでも歌ってみたは収録できるはずなのです。
スマホもマイク付きイヤホンも所持しているので不可能ではない&試したので知ってる。
が、どうしてものを揃えなくてはと思っているのか。
一因として「金かけたからにはやらねば」が発生するのを少し期待しているのかも。ただし、それが発生したらしたで義務感に苛まれてしんどくなるのはわかっている。現に各種試験や講座に追われている。
それなら出費しない方が賢明っちゃ賢明ではあるが「欲しい」気持ちはある。
要するに「己が痛みは最低限に、できることならやってみたい」的なことなのか。
それはズルいなぁ、とも思いながら大体の人がそう思っているのではないでしょうか。
だからこそ(?)目に見えないところで勇気と痛みを持ってして何かに挑戦してみた人を「羨ましい」とか「ずるい」とか思ってしまうのではないでしょうか
氷山の一角の図を見ればわかるように大体の事柄はほんの少ししか見えないものです。
また同様に例え自分自身のことであっても全てを見ることができていないのも事実。
多くのものが見えているからといってそれが全てではない。かといって表に何も見えなくたって、何もないわけではない。
10万円という数字としてわかりやすい価値をきっかけに自分自身というわかりにくい価値を見つめてみることができるのも
私の価値、私らしさなのかもしれない