ピークエンドの法則
ピークエンドの法則は、幸福学で知った用語です。
人は一番良い時or悪い時(ピーク時)のことか、最後の時を強く記憶する。
といった旨の話です。
なお、ここで最後の時間(結果)に辿り着くまでの時間はあまり関係なく中身のトピックのみを覚えているそうです。それなら最良の結果と呼べるまで足掻いた方が人生単位で見れば幸せになれるという法則性があるのです。
そして人はやったことの後悔はそこそこ薄れていってくれますが、やらなかったことの後悔は消えないそうです。
なんというか、負った傷なら癒えるけれど負えなかった傷は癒しようがないからですね。
傷を負いたくないから避けたはずなのに、かえってどうにも癒せない傷になるのはとっても不合理な選択だなとは思うのですが幻惑を見てしまうのは人間の思考のクセですので。
それが悪いとかではないと思っていますが、理論的に幸せになれるならその手のクセは矯正した方が良いかと。
この理論にもお名前がついていますが長くなるのでまた今度。
やったことへの後悔は確かに薄れていきます。
かつては考えが足りなかった、勢いのまま進んでいた、終わったことだしまぁどうしようもない。まあいいか、でなんとか癒えるか傷跡になるので。
ではやらなかったこと、やれなかったこと、やった方がよかったと気づいたこと
これらはどう成仏させてあげられるのでしょうか。
自分の中では「もう終わり」「続きは描くつもりがない」と考えていたとしてもふとしたきっかけで思い返すことは後悔なのでしょうか
これは最初、恋の話だったはずなのです。
だけど考えや価値観、見方の名前をつけるたび「これは恋と呼ぶにはなんだか様子が違う」と
好きな人に振り向いてほしいのは恋ですね
好きな人の好きな人になりたいのも恋ですね
好きな人とずっと一緒にいたいのも恋です
好きな人の一生を近くで生きたいのも恋でしょう
でも、自分といても幸せにしてあげられないなと思ったら、他の誰かの方が幸せにできると思ったら。愛してしまったから私じゃないとなるのですね。
一緒にいて私は何をしてあげられるのでしょう
私が、あなたといたいから、一番近くで人生見届けたいから
だから舞台に上がれなくても、最前席で眺めたい。舞台挨拶に呼んでくれるんならそれ以上の幸せはないくらい。
ここまで書いたら嫌でもわかってしまった。
なんだ、私自信がなかっただけなのか。勇気がたりないだけなのか。
何になりたいとかはないけど、それでも一番好きだよって言えばそれでいいのかな。
好きだったら、せめて何か提供できる私でありたいな。
この「おそらく恋」のエンディングはどんなものでしょうか。
きっと、最上のハッピーエンドまで私は足掻くんでしょう。