王子動物園
特に行く予定があったわけではなく、早朝から神戸を彷徨いどこに行こうと思案していたところ、三宮から歩いて40分ほどで王子まで行ける。そして動物園がある。ということで見学をしてみようと立ち寄りました。
プロローグ
朝7時ごろからホテルチェックインもできず街中をうろつき、9時開園のためしばらく付近を散策しておりました。あのエリアには学校が多く、元気な子供たちの姿、小テストがあるのか授業のノートを読み返しながら歩く姿、お友達とのおしゃべりを楽しむ姿など明るく輝かしいものを見た心地です。
本編
開園すぐ入場し、いざ見学。
私は門向かって右側から反時計回りに見て回りました。
鳥
まず出会ったのは鳥類。インコやオウムがおりました。
色鮮やかで大きい。南国の熱帯林ではこの色味の方が安心、効率的なのは不思議で面白いですね。木の実に擬態できる色合いなのでしょうか?
鮮やかな赤、黄色、黄緑、青色とまるで絵の具で塗ったような極彩色
それから、彼らは鳴き声も大きめですね。ちょっと怖かったです。いつ鳴くかヒヤヒヤしていました。唐突に大きい音がするとびっくりするのはどの生き物も共通のことかと。
ペンチのような役割を持った大きなくちばしが印象的でした。人間は大きな翼も鮮やかな色も固く強い嘴も持っていませんので鳥さんはすごいなぁと思いました。
熱帯の極彩鳥の横には渡鳥、保護された鳥さんがおりました。彼らの色味は割とシンプルで白、黒、グレーのものが多かったですね。
ネコ科の仲間たち
鳥さんコーナーの真正面にはライオンがおりました。
その日も朝から十分に日が照っており、暑かったためでしょうか。大きめの猫さんもといレディ・ライオンさんは日陰でどっしりと横になっていらっしゃいました。
彼らは本来早朝と夕方の涼しい時間に狩りを行い生きているのでこの時間にそうしているのはごく自然なことでしょう。
一つ疑問はこの狭い展示場の中では万全に狩りの動きをすることはできないでしょうから野生の動きや感性を思い出すことはあるのでしょうか。仮にそれはなくとも本人が幸せなら良いかな、とは思いました。大きめの猫さんとして生きるのもまた一つの幸福かもしれません。
次に進むとヒョウさんが1頭・ジャガーさんが2頭いらっしゃいました。
ライオンさんに比べると彼らはだいぶ活動的でしたね。元気いっぱい展示場の中を歩き回っていらっしゃいました。動いているのを見るとしみじみと思いますが、やっぱり大きめの猫さんですね。猫パンチ的な動きや高いところに登りたがる動きなどは特に。
ですが「猫さんぽくない」と驚いた行動が一つ。
軽く池のように水が溜めてあるところが場内にあったのですが、そこで黒いジャガーさんの一頭が水遊びをしてらしたのです。池で浮かんだり沈んだりする木の板にじゃれつき非常に楽しげでした。
あの子の性格なのか、種としての本能なのか。ともあれ楽しそうな様子で素敵でした
イチオシ。象
私が最も衝撃を受けたのは次のコーナーへ足をすすめた時。
角を曲がると、象さんがいらっしゃいました。
マップで事前にわかってはいたのです。ですが、本物を目にしたときに衝撃を受けたのです。
「でかい。勝てない」
個人的に勝とうとしているのではありません。
人類はなぜこの生き物に勝てる、倒せるようになってしまったのでしょう。これが大脳と群れの力か。と思うと同時にあまりに不遜……とも思いました。
こんなにも、恐ろしいまでに大きい生き物。この大きさで地上を歩くもの。美しいけれど怖かったです。
固くゴワゴワして、大きな体を守る皮膚
牙と書くけどツノみたい、歪なまでに長く硬質な象牙
骨格標本を見ると本当に軟骨なのにとても器用に自由に動く長い鼻
体の重さの単位がtなのにも納得の存在感、質量感でした。
恐ろしかったけれど、なんだか哀と愛のこもった目をしていらっしゃいました。目の周りの皮膚のせいでしょうか。
それとも、かの生き物に比べれば人間など矮小と思う私の気持ちがそう見せたのでしょうか。
資料館
象さんの展示を後にし、資料館?学習館のようなところへたどり着きました。建物の前にはなぜか兵馬俑がありましたが、理由を探究するのを忘れていました。
「なんで兵馬俑?!」とはしゃぐだけはしゃぎ、ペンギンプール併設の資料館へいざ。
こちらのペンギンさんたちはファンサが厚いですね。人間慣れしているのか、好奇心が旺盛なのか。じっと見ていると近くを泳いでくれたほか、通過するのでなく目の前で止まってくれたりもしました。
資料館の入り口の壁には大きな木製パズルがございました。
世界地図を模したもので、よく見ると「その地域に住む動物」の形の積み木のようなブロックが集まって一つの大陸の形を表していました。
日本人なのに日本が何の動物であったか完全に忘れましたが、ブリテン島はリスや小鳥だったのを覚えています。島国ですし、緯度が北海道と同じくらいなので確かにふわふわの小動物だよな。と妙に納得しました。
館内に進むとまず推してくるのがゴリラです。王子動物園かつての主役。ゴリラ。
最近はゴリラにお会いできる動物園が少なく寂しい気持ちの広報係です。
ロボット人形のシルバーバックと子ゴリラがお出迎えしてくださいました。父子ですね。
植物の生い茂る地域に暮らし、日々移動して生活しているようです。キャラヴァンのようですね。もしくは遊牧民。(牧畜はしないのでこの表現は違う気もしますが)
彼らの住まう地域は年々減少しているほか、今ではもう姿を見ることができない森が大半だとか。住まいを追われ生きていけなくなることはどれだけ辛いことでしょう。身軽に心地よい環境を求め渡ることも自由ですが、心地よいと感じるところに定住する・そこでのみ生きていくのもまた自由なのです。どちらが良いなどと部外者が口を出してはならぬのです
彼らが自由に生きる森を取り戻すことが正義か、営みの流れの中で淘汰されていくのを受け入れるのが正義か。どっちを選ぶとしてもそれはあくまで人間の選択なので、不遜かは個人の判断にお任せしましょう。
この話は掘り下げると別枠の話になるのでまた今度
ゴリラの森の次はサバンナです。机上に模型が広がっておりました。
音声案内が付いていたのでボタンを押し、案内を聞いてみました。
人間からすれば、にはなりますが、決して糧が潤沢で過ごしやすいとは言えない厳しいまでに変化の激しい広大な地域には多種の生き物が住んでいます。
短めの植物。背の高めの細い木。小型の虫。大きめの草食獣。それを食らう肉食獣。
全て循環しているすごいシステムが俯瞰してわかりやすい地域。
厳しい環境に生きるものは不思議と体が大きいですよね。大きくなれば心拍数が少なくなって寿命が長い傾向になりますし、体が大きい分その生命を維持するためにより多くの糧が必要になることでしょうに。それでも大きい方が都合がいいのは不思議ですね。
この展示の中で印象的だったフレーズが
草食動物の話の中で、食べる植物の種類が違う(位置が違う)ので「争いは起きない」というもの。生き物の本質として「食う・食われる」はあれど争うことはないのです。
流石に補足として同種間では争いが発生しますが、自然界の合理性においては争いなんてないのかと思うと何か感慨深かったりします。
次の展示は冬の山の生き物たちでした。
木の根元に穴を掘り冬眠する熊、土の中で春を待つ蛇や蛙。木の中に住まう鳥や栗鼠。割と雪の上でも元気に生きるたぬき。虫類は卵でした。
人間は火を起こして文明を発展させたからちょっと忘れますが生き物にとって冬とは厳しく過ぎ去るのを待つもの……なので冬場お仕事に勤しむみなさんはとても頑張っていて偉いのです。
その後草食・肉食・雑食動物の頭蓋骨格の比較や鳥の嘴の機能比較など。
硬いものはそのままの形が残って良いですね。タンパク質は分解されちゃうので……
各動物のフンや食事内容の展示もございました。
群れの内容紹介も面白かったです。
アシカは一頭の雄に対して周りは雌と子供たちで構成されるハーレムと呼ばれる群れを構成し
ライオンは雌多めで子供たちと雄が少しで構成されるプライドを形成
ハイエナはクランと呼ばれる群れを作り
他にもペンギン、シマウマ、渡鳥など……
他種から一見するとわかりにくいですが、その群れには明確なルールがあり合理性に基づいてそれは脈々と続いている。自然界すごい。
キリンやゾウ、ライオン、ハイエナ、イルカなどの骨格標本もございました。海獣の標本を見るたび軟骨ってそんな感じなんだ……と思います。骨と肉でできた水かきとも一線を画する大きな水かきシステムこそパドルやフィンといったところですね!だからこそあの大きさにもなるのでしょう。大きな水生哺乳類には感服いたしますね。ナニ目線なんでしょう…
資料館最後にございましたのが剥製です。
かつて生きていたものの綺麗なミイラ。という認識で見ています。
かつてその瞳でこの世界を見たことがあるのですね、と思ったらなんだか怖くて涙が出てきました。なぜ。
形あるものに魂が宿るとは言いますが、この場合彼らの魂はどこにいくのでしょう。もし、ここに魂が宿っていたとしたらそれはいったい誰の魂なのでしょう。
だから少し、いや、かなり怖かったのだと思います。
そもそも私生き物怖いですし。人間の矮小さに気づくので。映画ナイトミュージアムとかちょっと怖いです。
自然に対する畏怖を刻み込んだなぁといった資料館でした。
カバ、カンガルー、アシカ、キリン
申し訳ないことに寸前の資料館の印象が強すぎて彼らの印象が薄いです。
カバ、でっか!
アメリカで最も人を襲っているのはカバだと昔何かで読みました。そんなにナチュラルにカバいるんですか?気性は激しくなさそうですが、彼らにとってのほんの一撃は人間にとっての致命傷になり得るのも当然だな、と思うサイズ感と質量感でした。
赤い汗をかくことで有名。そしてカバの上によく小鳥がおりますがアレ意外と共生ではなくカバ側は皮膚を啄まれ怪我しているらしいです。
共生に見える利害関係、依存にも見える共生、食う食われるに見える依存。関係性はさまざまですね。
カンガルーさんは木陰でみなさんゆっくりしていらっしゃいましたが一頭だけやたら元気に駆け回っていらっしゃいました。お若いのですね。
カンガルーというお名前は、昔々英国の方が現地の方に「あれはなんて生き物?」と尋ねたときに「カンガルー」とおっしゃられたそうな。
英国の方は「カンガルーという名前の生き物なのだね」とされましたが
「カンガルー」はお名前でなく「わかんない」という意味の返答でございました。
異言語間でのすれ違いが現代まで残ったものがこのお名前です。
ちなみにこちらのお話は俗説だそうで。
私はこの話アホっぽくてすごく好きなのですが、謂れのない誤解は解けた方が良いですものね
部族によって呼び方違うけどある一つの部族が「カンガルー(大体)」と呼んでいて、今では全体的にカンガルーと呼ぶようになったとかなんとか。
アシカさん方はなんとなーく泳いでいるのを上から眺めたのみ…すみません……海獣は水族館かなと。
キリンさんはお食事してらっしゃるところを間近で見せていただきました。
まつ毛なっが。
生き物として大きいので当然ですが顔もでっか。
もしゃもしゃと木の葉を召し上がっていらっしゃいました。
猿
もしかしなくても猿ちょっと怖い。
近くて遠いものほど怖いと思うのですがいかがでしょう?似ているのに話通じないんですよ。もし外部惑星からお客様がいらっしゃったときお話が可能なら怖くはないかもしれません。でも倫理観が圧倒的に違う可能性はなきにしもあらずなので相互理解が重要になってきますね。
話がそれました。
猿の惑星は怖くて見れないけどアバターは見れるのですがそれも一因でしょうか。ミニオンもちょっと怖いです。
スターウォーズはお恥ずかしながら未視聴のため見てみようかと思います。メカメカしいので見れる気がします。
大きめのお猿さんはゆったりと余裕のある動きをなさいますね。体の重量感も一因でしょうか。反対に小さめのお猿さんは展示場の中を縦横無尽に動き回っていらっしゃいました。小さな体躯を目一杯使って体長の倍ある距離を飛べるのはすごい力と機能だなと。
小猿さんの一頭が鬼気迫る勢いでケージの、鍵のあるあたりを一心不乱に叩いていらしてだいぶ怖かったです。そこが開くことを知っている動きですよねそれ。他の動物さんも開くところはご存じなのかもしれませんが扉にそこまでのアプローチをしていたのは彼だけだったのでちょっと怖かったです。
オランウータンやマントヒヒなど大きめのお猿さんはあまり動かれず、じっとしていらっしゃることが多かったのですがそれはそれで普通に体躯に恐れをなしました。
その気になれば膂力などは彼らの方が圧倒的に強いです。そして互いの言葉がわからない分容赦がないです。ためらいが生まれないので。異種族間で争うことの不毛さはここにあるかもしれません。単にステータスだけでの勝負になりかねないので。何も産みませんし。
その他
その他とざっくりまとめさせていただきました
コアラさんの展示場はなんだか穏やかな空気が流れていましたね。コアなコアラファンであろう方々も何人か見られましたし。
ふわふわでぬいぐるみっぽいビジュアルで愛らしかったです。
徐々に記憶も薄まる中、やっぱり猿と象の印象は強いまま。
それだけでかなり「いいものを見た」と思えます。
動物園が、種の保存および研究機関であることを考えると入場料安すぎでは?と思うほど。外来者たる私ですら請求されるのは六百円ほど。地域住民、学生さんはもっとリーズナブルに見学できることでしょう。
お近くに動物園、植物園、水族館などがある方は大事になさって
そしてできるだけ足しげく通っていただけるときっと世界は美しくあってくれますわ。
今回はここまで。
令嬢言葉
みなさま、ごきげんよう。
幸福学の勉強の最中また面白い話を知ったので共有させていただきます。
「お疲れ様です」よく使う言葉ですか?「おはようございます」の時間が終わったら、これを言っておけば間違いない。くらいの認知と化しているマジックワード。
それこそが「お疲れ様です」
あまりに普段使いしすぎて気づいていなかったのですが、
「お疲れ様です」が飛び交うことによって仮に本人が
「さぁ、今日も一日これから頑張るぞ!」と思っていても
脳が「疲れているのだ」と認知してしまうことがあるそうです。
なんと……嘆かわしい事態ですね。疲れてもいないのに疲れていると思い込まされてしまう。言うなれば「かわいそうだね」と言われ続けると「かわいそう」から脱却できなくなってくるのに似ています。
そこで、ある企業では「お疲れ様」の代わりに「絶好調」と挨拶をするそうです。
I'm goodとかGreatとかExcellentみたいなことですね。
素敵な試みですね!と思ったのと同時に、気持ちが全然元気じゃないのに「絶好調」と言わざるを得ないのもどうなのかしらと思いました。
では、何なら程々のポジティブ感で挨拶ができるかしらと考えた時に
こそ最強なのでは。と思い至りました。
ごきげん麗しゅう、でも構いません。
BLEACHで11番隊でも飛び交っているとかいないとか。
なんだかポップで、麗しい感じになるので日本の企業のありとあらゆるところで使ってほしいなと思うなどしました。
いかつめのおじいちゃま専務が「ごきげんよう」とか言ってほしいですもの。
少しのことで明日の世界が麗しくなりますように。
ピークエンドの法則
ピークエンドの法則は、幸福学で知った用語です。
人は一番良い時or悪い時(ピーク時)のことか、最後の時を強く記憶する。
といった旨の話です。
なお、ここで最後の時間(結果)に辿り着くまでの時間はあまり関係なく中身のトピックのみを覚えているそうです。それなら最良の結果と呼べるまで足掻いた方が人生単位で見れば幸せになれるという法則性があるのです。
そして人はやったことの後悔はそこそこ薄れていってくれますが、やらなかったことの後悔は消えないそうです。
なんというか、負った傷なら癒えるけれど負えなかった傷は癒しようがないからですね。
傷を負いたくないから避けたはずなのに、かえってどうにも癒せない傷になるのはとっても不合理な選択だなとは思うのですが幻惑を見てしまうのは人間の思考のクセですので。
それが悪いとかではないと思っていますが、理論的に幸せになれるならその手のクセは矯正した方が良いかと。
この理論にもお名前がついていますが長くなるのでまた今度。
やったことへの後悔は確かに薄れていきます。
かつては考えが足りなかった、勢いのまま進んでいた、終わったことだしまぁどうしようもない。まあいいか、でなんとか癒えるか傷跡になるので。
ではやらなかったこと、やれなかったこと、やった方がよかったと気づいたこと
これらはどう成仏させてあげられるのでしょうか。
自分の中では「もう終わり」「続きは描くつもりがない」と考えていたとしてもふとしたきっかけで思い返すことは後悔なのでしょうか
これは最初、恋の話だったはずなのです。
だけど考えや価値観、見方の名前をつけるたび「これは恋と呼ぶにはなんだか様子が違う」と
好きな人に振り向いてほしいのは恋ですね
好きな人の好きな人になりたいのも恋ですね
好きな人とずっと一緒にいたいのも恋です
好きな人の一生を近くで生きたいのも恋でしょう
でも、自分といても幸せにしてあげられないなと思ったら、他の誰かの方が幸せにできると思ったら。愛してしまったから私じゃないとなるのですね。
一緒にいて私は何をしてあげられるのでしょう
私が、あなたといたいから、一番近くで人生見届けたいから
だから舞台に上がれなくても、最前席で眺めたい。舞台挨拶に呼んでくれるんならそれ以上の幸せはないくらい。
ここまで書いたら嫌でもわかってしまった。
なんだ、私自信がなかっただけなのか。勇気がたりないだけなのか。
何になりたいとかはないけど、それでも一番好きだよって言えばそれでいいのかな。
好きだったら、せめて何か提供できる私でありたいな。
この「おそらく恋」のエンディングはどんなものでしょうか。
きっと、最上のハッピーエンドまで私は足掻くんでしょう。
憧れの自動手記人形
ごきげんよう。広報担当しきみです。
今日は好きなもの、仲間探しをしてみようかと。
アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」ご存知でしょうか。
絵がとっても綺麗で見かけたことがある方もいらっしゃるかと。
京都アニメーションさんが5分でわかるアニメをUPしていらっしゃるのできっかけにぜひ。
文字でざっくり説明しますと、義手の少女が「愛してる」の意味を知るために
手紙の代筆業を通して成長していく物語です。
ここで私がご紹介したいのは
作中に登場する手紙の代筆会社 C.H.(クラディア・ホッジンズ)郵便社で働く
自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)
という存在。
物語の中での彼女らはお客さまの気持ちを代筆しお相手に届けるお仕事を行なっており、時には自分では恥ずかしくて言葉にできなかった気持ちすらも汲み取り文章に落とし込む。
お客さまの「言葉」でなく「気持ち」を代筆すると前述したのはそういうことです。
私もお手紙が好きです。企業・公的機関からのワープロ打ちで簡素な手紙でなく。
想像して欲しいのです
しっとり重厚感のある封筒に艶やかな封蝋、緻密な細工の封印
銀のペーパーナイフで封を切れば
紙とインク、それからあの人が好きな花とコーヒーの香りが広がる
丁寧に折り畳まれた優しい手触りの便箋を広げれば
青いインクで手書きの甘い言葉が綴られている
そんなお手紙が届いたら、ある日突然ポストに入っていたら、とってもワクワクしませんか?
誰かにそれを届けられるよう
愛する人が私の書いた手紙でそんな気持ちになってくれるように
文章も文字も上手になりたいなと思うのです。
毎日もっと勉強しなくちゃと思うことばかりですが、これもまた欲しい。
強欲ですかね
では、此度はここまで
巨氷山と無形の価値
お題スロットを回してつい気になってしまった10万円。他のお題は「好きなもの」とか「断捨離」とか「昨日のご飯」とか日常のささやかな幸せに関連するようなそんな雰囲気。そんな中燦然と輝く10万円の文字。
「10万円あったら何がしたい」でも
「10万円手に入れる方法」でも
「10万円の価値」とかでもなく
ただただ「10万円」とだけ書いてあるお題
1000ドルではきっと手を止めなかったのでしょう。
800ポンドとかでもいまいちしっくりこなかったでしょう。
10万円だからこそちょっと気になってしまった。手を止めてしまった。
そこに私はどんな心理があったのでしょう。推察してみましょう
素直に10万円は欲しい。
特に後腐れも後ろめたさもなく10万円もらえるならマイクとポップガード、インターフェイス等「歌ってみた入門セット」的なものが欲しい今日この頃。
ちなみにこれらは10万なくとも購入は可能。3万あればサクッと揃うくらいのもの。
冷静に考えてやりたい気持ちさえあれば今すぐにでも歌ってみたは収録できるはずなのです。
スマホもマイク付きイヤホンも所持しているので不可能ではない&試したので知ってる。
が、どうしてものを揃えなくてはと思っているのか。
一因として「金かけたからにはやらねば」が発生するのを少し期待しているのかも。ただし、それが発生したらしたで義務感に苛まれてしんどくなるのはわかっている。現に各種試験や講座に追われている。
それなら出費しない方が賢明っちゃ賢明ではあるが「欲しい」気持ちはある。
要するに「己が痛みは最低限に、できることならやってみたい」的なことなのか。
それはズルいなぁ、とも思いながら大体の人がそう思っているのではないでしょうか。
だからこそ(?)目に見えないところで勇気と痛みを持ってして何かに挑戦してみた人を「羨ましい」とか「ずるい」とか思ってしまうのではないでしょうか
氷山の一角の図を見ればわかるように大体の事柄はほんの少ししか見えないものです。
また同様に例え自分自身のことであっても全てを見ることができていないのも事実。
多くのものが見えているからといってそれが全てではない。かといって表に何も見えなくたって、何もないわけではない。
10万円という数字としてわかりやすい価値をきっかけに自分自身というわかりにくい価値を見つめてみることができるのも
私の価値、私らしさなのかもしれない
実質のことはじめ
ヴァルプルギスの夜、ご存じですか?
欧州における魔女のお祭り……みたいな認識がスタンダードでしょうか。
きっかけ
私がこの名前を知ったのは
魔法少女まどか☆マギカ が初めだったと記憶しています。
主人公たちが倒すべき強敵の呼称でしたね。その時はただ「なんか怖いやつ」程度の認識でした。
次に調べてみようと思ったきっかけは
Leet speak Monsters のBeltaneという曲から。
✨とても素敵なので聞いてみていただきたいです✨
この曲のサビの最後に「星空向ける手流れ星降る 踊るワルプルギスの夜」という詩があるのです。
ワルプルギスの夜とは?
なんだか怖そう?悪い魔術の儀式みたい?ちょっぴりそう見えることもあるかと。
ワルプルギスの夜という言葉が出てくる先ほどの曲のタイトルはBeltane。
大体同じ意味なのかと思いきやしらべてみると少し違うみたいです
そもそもワルプルギスという名称はイングランドの宣教師にして聖人・聖ワルプルガに由来するものであるそうです。
しかし、この五穀豊穣祭Beltane自体はキリスト教よりも歴史が古く
ケルト文化版のイースターみたいなものだと解釈するとわかりやすいかもしれません。
例年4月30日の夜(ワルプルギスの夜)にはドイツ中部ブロッケン山にて魔女たちが集まり篝火を焚くなどして大規模な集会が開かれているそうです。
もしやこれ
ワルプルギスの夜=魔女たちの集会。夜間に行う
ワルプルギス自体=みんなで五穀豊穣を願う祭。日中に行う
みたいな話では?!
クリスマスよりクリスマスイブが大事に目立っちゃってる、みたいなことでは?!
話が少し逸れました。
元の話に戻って私が注目したいのは
「ワルプルギスの夜」は要は豊穣祭。これから豊かにみのり育つように願い祈るお祭りの日。
通常4月30日の夜から5月1日にかけて行われます。
そして今年の5月1日は新月なのです。新月はスタート地点・種まきの時として認識されます。新月や満月の日はお願い事をするのに良いとされています。
考え方は魔術系統によりますが当局では
新月・これから満ちていく世界に期待を込めて、何をしていくか・どうなりたいかを願うのに打ってつけ
満月・満ちた世界に感謝すると共に次の世界までに何をしていくかを決めていくのに打ってつけ
のような考え方をしています。「いい機会だしこの辺りで考えてみよう」ですね。
願いを書き留めよう
せっかくなのでお願い事、してみましょう!
紙に書くのがおすすめです。紙も大きめだとなおよしです。
スマホのメモの方がいつでもみられるよ?書いて誰かに見られるのは恥ずかしいから…
気持ちはわかります。ですが当局が紙に書くことを薦めるのは以下の点から
・ヒトは良くも悪くも忘れる生き物。そして願い事とは意外と儚いもので捕まえてみないと消えてしまいます。また、実態がわからないまま終わることにも繋がりかねません
・可視化するには抱いた願いを言葉にする必要があります。言葉に表せば自分が何を願っているのかとぼんやりしたものに輪郭がつきます。
・また、紙に記すことで
ペンを動かす感触
インクや紙の匂い
紙の上をペン先が走る音
など頭で考えるだけでは得られない感覚も刺激してくれます
・書きあがれば目に見える。つまり視覚にも作用します。視覚はヒトの知覚する情報源のの8割を占めているとも言われます。そのため脳に入って行きやすいのです
・五感を使って願い事を書き留めることによって脳が勝手に「これ叶えなきゃなんだね」と判断し知らないうちに叶えるためのアプローチをするよう意識してくれます。
物理的に「手を動かす」のは意外と重要なのですね。
また、このお願い事書留を満月・新月のたびに行なっていただくと良いとされています。
願いを書いた紙は処分しても構わないそうですが、私はノートに書き留めていますので見返すこともしています。
見返してみると過去の自分と今の自分では願いの内容も質もかなり変化していることがわかります。
自己成長や価値観のブラッシュアップ、本当に欲しいものの認識ができる習慣となっています
最後に
なんだかんだ書き連ねましたが私自身はまだ「本当に欲しいもの」が自信を持ってわからないのです。人生をかけて欲しいもの、叶えていきたいこと。
見つかって、向き合えている人が羨ましくもなりますがよそ見して見つかるものでもないのでしょう。答えは自分の中にしかないのです。
何を選んでいいかわからなくなるほど自由な現在において選択肢の多さは悩みの種でもありましょう。それなら一番身近にあるものから比べて選んでみましょう。
幻惑でも、表層でも、あまりに身近で気がつきもしなかったものでも、願いを書き出して見ることができたら少なくとも「これだ」「これじゃない」のタグづけができると考えます。
そして世に溢れる選択肢から探さなくても目の前にあるものにYesかNoがつけば少しだけ欲しいものに近づけるはずです。100択では選びきれないものも2択になれば選べるのです。
違ったのならまた別の案にYes/Noをつければいいのです。
そうしていくうちに願いにも傾向が出てくるので、選択できるまでに範囲ができているはず。
そして、そこまで突き詰めたからには「やりたいことをやっている」自分にいつの間にかなれているのかも。
世界の無垢な願いが叶いますように。この記事があなたの願いを見つけるきっかけになりましたら幸いです。
では此度はここまで。またお会いしましょう
適材も適所も選択肢の先にあるのです
今週のお題「好きな街」
今日の記事を書いてみようと開いたところ、今週のお題なるものが表示されていたので
トライしてみようかと存じます。
いざ問われるとどんなところが「すき」に該当するのでしょう?
私は今のところ一と所にしか住まったことはありませんが、不思議と気兼ねなく訪れることのできる拠点がいくつかございました。
一番長くいるので実家の自室が最も自分好みの空間ではありますが
聞こえる音、日当たり、設備、アクセスのよさなどその時々に求めるものによって
適当な場所は変わっていくものです。
極端に例えればご飯を作りたいのにサウナにいても適切とは言い難いでしょう。
私は安定したルーティンを好みますが、冒険も同じくらい好みです。
できる限りいつもの環境は変わらないでほしい。でも時々知らないものやいつもと違うリズムも楽しみたい。
ワガママだなと言って仕舞えばそうですが、激しい変化の流れのもと選択肢が溢れている今現代において
「絶対にこれ一つだけ」とは決め難いと思うのです。
自分の「好き」に従って何か一つを愛し続けられたら素敵だなとも思うのですが、決められなくてふらふらふわふわしているのもそれはそれで素敵な贅沢ではないでしょうか。
まだ知らない世界がたくさんある。そしてこれから知らない世界はどんどん増えて広がっていく。それなら、試していけば何か一つ「これだ」とハマるものが必ず見つかるのです。
今はまだ一つに決められない理想のまちも、いつか気がつくと住んでいるのかも。
そしてそれを作るのは自分だったりするのかもしれません。
このお話はここまで。続きはまたいつか